そんな事は、どーでもいゝとして、要するに、俺が此家へ持つて来られたと云ふのは、俺の記をして、素敵な彩色を織り出さしめた物であつた。思へば、過去三年の間、可笑しい事もあつたし、愉快な事も有つたし、或は悲しい事も、辛い事も有つた。
 処で、我輩等の今の境遇はどーだと云ふと、愉快だと云ふ仲間も居るし、中には面白くないと云ふ仲間もある。しかし、俺は、愉快だとも、乃至、面白く無いとも思はんよ。何だと思ふつて、何とも思はんのさ。と云つたからつて意志が無いと思はれては困るね。面白い事と、悲しい事と、差引勘定零。此点に於て、何も思はん事となるのさ。一と二と三と加へて、一と二と三と引けば、差引勘定零。此処に於て、何も無い事となるのさ。花が咲いて、花が散つて、何も無い事となるのだ。と云つて、此の無と云ふのは、無には相違ないけれ共、絶対的の無ではない。無にして無にあらず、では有るのかと云ふと有るのでもない、何の事やら訳のわからぬ物だ。しかし、考へて見給へ、人間が此世に生れて来て、十歳で死なうが、二十歳で死なうが、乃至、百歳で死なうが、皆死んでしまふ。即、生と死、差引勘定零となるのだが、即ちこの零、即死なるものに於ては一だが、其の死に至る間のプロセスに至つては、実に、千変万化である。どんなプロセスでも、死に至ると零となるけれ共、其零となる所以のものを考へて見るのは、面白くない事ではない。否、人生の楽しむ可き処は、そのプロセスに有るのだ。プロセスの原で、人間は操られて居るのではないか。此所に於てか、此の「零」なる物の価値や、中々重大なる物と云はねばならない。換言すれば、零は同じく零であつても、零の属性が異つて居るのだ。人間は、此の属性の異なる可き処に、多大の趣味を持つて働いてゐる。又、そーしなければならないのだ。アダルトオンラインゲーム 空き家の雪隠
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