蓄音機の音止む。


夫  いろんなことを云ふやうだが、お前は近頃、何が食ひたい?
妻  ……。
夫  もう眠つたのか。
妻  ……。
夫  そんな筈はない。たつた今、欠伸を噛み殺してゐたぢやないか。
妻  ……。
夫  あくまで狸を粧ふつもりか。
妻  ……。
夫  お前がびつくりするやうなことを云つてやるが、それでもいいか。
妻  ……。
夫  ようし……。云ふぞ。大きな声を出すな。
妻  ……。
夫  おれは、さつき、十年前の恋人に遇つたよ。おれにそんな恋人のあつたことはお前も知るまい。今までその話はせずにゐた。お前の心を不必要に乱したくなかつたからだ。しかし、たうとう、お前にそれを打ち明けなければならない日が来た。そんなに息を殺さなくつてもいい。
妻  ……。
夫  向うはまだ独りでゐるらしい。純潔そのもののやうな目をもつた女だ。その目が、昔と少しも変つてゐないやうに、おれに対する気持も、そのまま昔と変りはないといふのだ。おれの方はどうだと云ふから、おれは云つてやつた。なんと云つてやつたか知つてるか。
妻  ……。
夫  おい、安心してる場合ぢやないぞ。
妻  (脇の下をゴシゴシ掻く)
夫  そんなところを掻いてる場合ぢやない。おれはなんと言つたと思ふ。おれはかう云つた。――あなたが、それほどまでに僕のことを想つてゐて下さるのはありがたいが、僕はもう自由ではありません。すると、そんな事は存じてをりますわ、と云つた。昨日もお二人が睦じさうに、廊下を歩いておいでになるところをお見かけしたんですもの。優しい上に、聡明な方らしいわね、奥さまは……と云ふんだ。おれは返事に困つて、あんな女はざらにありますと云つてやつた。
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