この苦労が新聞が終るまで、いや、小説を書いている限り、毎晩つづくのだと思うと、悲壮な気持にさえなるが、しかし、これほど苦労しても、結局どれほどの作品が出来るのかと考える方が、はるかに悲しい。作家はみな苦労し、努力し、工夫し、真剣に書いているのだが、ふと東西古今の大傑作のことを考えると、苦労も努力も工夫もみな空しいもののような気がしてならない。しかし、それでも書きつづけて行けば、いつかは神に通ずる文学が書けるのだろうか、今は、せめて毀誉褒貶を無視して自分にしか書けぬささやかな発見を書いて行くことで、命をすりへらして行けばいいと思っている。もっとくだらぬ仕事で命をすりへらす人もあるのだから。

 古今の大傑作を考えると、自作を語る気にもなれないが、もう一つ言うと、僕はちかごろ何を書いても、完結しないのだ。「世相」という小説は九十何枚かで一応結んだが、あの小説はあれから何拾枚もかきつづけられる作品だった。ダイスのマダムの妹を書こうというところで終ったが、あれは「世相」の中でさまざまな人間のいやらしさを書いて来た作者が、あの妹を見てはじめて清純なものに触れたという一種の自嘲だ。が、こんな自嘲はそもそも甘すぎて、小説の結びにはならない。「世相」は書きつづけるつもりだ。「競馬」もあれで完結していない。あのあと現代までの構想があったが、それを書いて行っても、おそらく完結しないだろう。僕は今まで落ちを考えてから筆を取ったが、今は落ちのつけられない小説ばかし書いている。因みに「世相」という作品は、全部架空の話だが、これを読者に実在と想わせるのが成功だろうか、架空と想わせるのが成功だろうか、むつかしい問題だ。
世田谷 矯正歯科 遠きは花の香
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