ベートーヴェンが歓喜を頌めようと企てたのは、こんな悲しみの淵の底からである。
 それは彼の全生涯のもくろみであった。まだボンにいた一七九三年からすでにそれを考えていた(64)。生涯を通じて彼は歓喜を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて彼は頌歌の正確な形式と、頌歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。『第九交響曲』を作ったときでさえも、究極の決定を与えかねて「歓喜への頌歌」は、これを第十か第十一の交響曲の中へ置き換えようという気持を、最後の決意の瞬間まで持ちつづけていた。われわれは、『第九』が世に普通呼ばれるごとく『合唱を伴える交響曲』と題されてはおらず、『シルラーの詩「歓喜への頌歌」による合唱を終曲とせる交響曲』と題されていることをよく注目しなければならない。どうかすると、この交響曲はまったく別の終曲を持つようになったのかも知れなかった。なぜなら、一八二三年の七月にはまだベートーヴェンは、この作品に器楽だけの終曲を与えるつもりだったのである。そのために考えていた主題はその後作品第百三十二番の弦四重奏曲の中へ転用せられた。一八二四年五月の『第九』演奏の後でさえも(ツェルニーとゾンライトナーの説によると)ベートーヴェンは終曲の作りかえの意図を全部的には抛棄していなかったという。 つくば 歯科 http://jijitu.bloog.pl/
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