交響曲へ合唱を入れるということには幾多の技術上の大きい困難があった。ベートーヴェンの手記や、また、いろいろな試作――すなわち人間の歌声をこの作の現在入れられてある箇所とはたぶん別な箇所へ、別なやり方で入れるつもりで、あれこれとやって見たいろいろな試作が、これらの大きい困難をわれわれに確証している。『第九』の緩徐調の第二の主題のための草案(65)の中に「おそらく合唱をここに用ったら歓喜がいっそう美しいだろう」と記してある。しかも彼は彼に対して忠実なオーケストラを見限る決心がつかないのであった。彼はいっている――「一つの楽想が心に来るとき、私には常にそれが器楽の音で聴こえる。けっして歌声によってではない。」彼はまた、人間の歌声をつかう瞬間をできるかぎり先へ延引していた。初めのうちは終曲の(66)宣叙調のみか「歓喜」の主題そのものをさえ器楽とすることに決めていた。
 けれどもこの不決断と延引との理由をさらに詳細に理解してみることが緊要である――その原因はいっそう深いところにあるのだから。絶えず憂苦に心を噛まれていたこの不幸な人間は、またつねに「歓喜」の霊妙さを頌め歌いたいと欣求した。そして歳から歳へ、その課題をくりかえし採り上げては、またしても、情熱の旋風と憂愁との囚になるのであった。生涯の最後に到って初めてこの目的を達成することができた。しかも何たる偉大さをもって彼はそれを達成したことか! 八王子 歯科 http://tata.yayapage.com/
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